ガイド / 産地の歴史
南部鉄器の歴史(盛岡と水沢)

南部鉄器には盛岡と水沢(奥州市)という二つの産地があり、始まりは約500年も離れています。ひとつの名前になったのは1959年、意外にも最近のことです。ここでは公的機関と工房が公式に記録している範囲で、その道のりをたどります。
01ひとつの名前、ふたつの産地
「南部鉄器」と呼ばれるものには、盛岡と奥州市水沢という二つの産地があります。ややこしいのは、この二つがまったく別の時代に、別の理由で始まっていることです。水沢は平安時代末期、盛岡は江戸時代。あいだにおよそ500年の開きがあります。
それが「南部鉄器」というひとつの名前になったのは、1959年(昭和34年)のこと。ほんの半世紀ほど前の話です。まず、二つの産地の違いを一覧にします。
| 水沢(奥州市) | 盛岡 | |
|---|---|---|
| 始まり | 平安時代末期 (約930年前/1088年ごろ) | 江戸時代 (17世紀・1659年とする資料も) |
| 招いた人 | 藤原清衡 | 南部藩主(南部重直) |
| 招かれた職人 | 近江国の鋳物師 | 京都の釜師(小泉家) 甲州の鋳物師(鈴木家) |
| 最初の品 | 武具、のちに鍋・釜 | 茶の湯釜 |
| 江戸期の保護 | 伊達藩 | 南部藩 |
| 作風の傾向 | 生活必需品・民衆向け | 茶道具・美術的要素が強い |
ここからは、それぞれの道のりを追いかけます。
02水沢 ── 平安末期、平泉の時代から
古いのは水沢のほうです。奥州市の公式サイトは、その始まりをこう説明しています。
今からおよそ930年前(平安時代の末期)、奥州押領使となった藤原清衡(平泉文化をきずいた人)が、近江の国(今の滋賀県地方)から鋳物師を、江刺市(今の奥州市江刺地域)にあった豊田館に招いて鋳造を始めたのが、この地方の鋳物業の起こりと伝えられています。
中尊寺金色堂を建てた奥州藤原氏の初代、藤原清衡です。水沢鋳物工業協同組合が挙げる年代は1088年ごろです。岩手県の資料は約950年前としており、招かれた職人は武具などを作ったと伝えています。年代に幅があるのは、それだけ古い話だからでしょう。
その後、同市の説明では南北朝時代(およそ640年前)に奥州総奉行の葛西氏が関西から鋳物師を呼び寄せ、「なべ」や「かま」を作りはじめ、現在の奥州市水沢羽田町に鋳物業が定着しました。いまも水沢の工房が羽田町に集まっているのは、この頃からの流れです。
なお、水沢の鋳物が「南部鉄器」と呼ばれる前の名前も残っています。OIGENは水沢の鋳物について「かつては田茂山(たもやま)鋳物」と記しています。
03盛岡 ── 茶の湯釜から始まった
盛岡はぐっと新しく、江戸時代です。ただし年代については公的な資料の間でも食い違いがあります。
- 伝統的工芸品産業振興協会・岩手県のウェブページ──17世紀初め、南部藩が京都から茶釜職人(釜師)を招いた
- 南部鉄器協同組合──17世紀中頃、南部藩主が京都から盛岡に釜師を招き、茶の湯釜をつくらせた
- 岩手県の公式PDF──1659年に第2代藩主の南部重直が京の釜師を「御釜師」として召しかかえた
ここで名前が出てくるのが小泉家です。現在も盛岡で続く御釜屋(小泉仁左衛門)は、創業を万治2年=1659年とし、初代小泉仁左衛門が京都出身の釜師として南部藩主重直に召し抱えられ、茶の湯釜を作ったのが南部釜の起源だと説明しています。
ただし盛岡の鋳物師は京都からだけではありません。鈴木盛久工房が伝えるのは別の系譜です。創業は寛永2年=1625年、初代・鈴木越前守縫殿家綱が南部家の本国である甲州(現在の山梨県)から御用鋳物師として召し抱えられたとあります。京都から来た小泉家、甲州から来た鈴木家——盛岡の鉄器は、複数の系譜が藩に集められて育ったものでした。
そもそもなぜこの土地で鋳物が育ったのか。OIGENは、鋳型に使う砂が北上川の河川敷から、粘土が北上山地から豊富に採れ、燃料の木材も近くの山にあり、さらに北上川が船での運搬路になったことを挙げています。材料と燃料と輸送路が揃っていたのです。
04鉄瓶はいつ生まれたか
ここまで出てきたのは「茶の湯釜」です。鉄瓶そのものは、もう少しあとに生まれます。
伝統的工芸品産業振興協会と南部鉄器協同組合は、そろって同じ一文を載せています。「有名な南部鉄瓶は18世紀になって茶釜を小ぶりにして改良したのが始まり」。手軽さから一般の人にも広く使われるようになった、と続きます。
誰が作ったのかについては、御釜屋が具体的です。宝暦年間(1750年頃)、三代仁左衛門清尊が「使い勝手の良い湯沸し」という考えから創作したのが南部鉄瓶の始まりだとしています。OIGENも8代藩主・利雄の時代に、小泉家3代仁左衛門が現在の南部鉄瓶の原型を初めて作ったとされると書いており、当事者の工房と同業他社の説明が一致しています。
つまり鉄瓶は、茶席の道具を日常の湯沸かしに作り変えたところから生まれたということになります。
05江戸時代 ── 二つの藩に守られて
江戸時代、二つの産地はそれぞれ別の藩の保護下にありました。この違いが、いまに残る作風の差につながっています。
盛岡は南部藩。良質な原材料に恵まれたことに加え、南部鉄器協同組合は藩が保護育成に努め、各地より多くの鋳物師・釜師を召し抱えたことで発展を続けたとしています。茶釜から日用品まで幅広く作られています。
水沢は伊達藩。奥州市公式は「江戸時代には、伊達藩の保護政策により大きく発展し『なべ』や『かま』などの日用品を中心とした鋳物の生産地として有名になりました」としています。OIGENは、藤原氏の滅亡後に鋳物師が各地へ離散したものの、羽田町に残った一部が半農半工の生活を始め、その後伊達藩によって鋳造の統制と保護が図られ、権力者の庇護の下でその衰退を逃れたと説明しています。
水沢の及富は1848年(嘉永元年)の創業で、伊達藩の保護のもと伊達家のお抱え釜師として活躍したと自社の沿革に書いています。日用品の産地とはいえ、茶の湯の流れもあったわけです。
06明治・大正 ── 金気止めの発明と鉄瓶黄金時代
明治維新は産地に大きな転機をもたらします。廃藩置県で藩の保護がなくなり、OIGENによれば水沢では規模の大きさに対応できない鋳造所の閉業が相次いだ一方、生き残った鋳造所は鍋や釜の量産に成功し、明治中期以降には東北一の生産量を誇ったとされています。
火事から生まれた技術
この時代に、いまも南部鉄瓶の特徴となっている技術が生まれています。OIGENの説明です。
1884年の盛岡大火の際、焼け落ちた工房に残っていた鉄瓶に金気が出ないことから着想を得て、有坂家21代富右衛門が「金気止め(錆止め)」を考案したとされています。
火事で高温にさらされた鉄瓶が錆びていなかった。そこから高温で焼いて酸化皮膜をつくるという発想が生まれた、というわけです。いまの鉄瓶づくりに欠かせない「釜焼き」の由来です。
大正の鉄瓶黄金時代
OIGENが伝える大正期はこうです。第一次世界大戦期の好景気による需要の高まり、出稼ぎ職人の帰郷、電気モーター送風装置の導入により生産能力が倍増し、鉄瓶黄金時代と呼ばれる発展を遂げた、というものです。ただし大正末期から昭和初期の不況とアルミ製品の流行で状況は一変し、鋳造所の閉業が相次いだ、とも続けています。
07戦時中 ── 22人に託された技術
南部鉄瓶が本当に消えかけたのは、戦時中です。盛岡市の公式サイトが、13代鈴木盛久について書いた文章の中で、この時期を具体的に記録しています。
日中戦争が始まると1938年(昭和13年)に「鉄統制令」が施行された。その3年後には鉄製品の製造が全面的に禁止となり、南部鉄瓶は断絶の危機に瀕した。盛久は伝統を守るため、8代小泉仁左衛門らと再三に渡り政府に陳情した。その結果、優れた工人16名に限り年間20個以内の製造を許され、盛久もこの一人に選ばれた。
OIGENも同じ出来事を、産地全体の視点から書いています。「伝統技術の保護のため、盛岡では16名、水沢では6名の職人に鉄瓶製造の許可が下ります。計22名の技術保存者たちは何百年と続く伝統技術の継承に尽力します」。
盛岡16名という数字が、市の公式サイトと工房の公式サイトで一致しています。年間20個以内、22人。いま私たちが南部鉄瓶を選べるのは、この細い糸がつながったからでした。1942年〜1943年には「南部鉄瓶技術保存会」が結成されています(結成年は資料により1年の差があります)。
08戦後 ── 生型の導入と、鉄急須の誕生
戦後、産地は日用品づくりに戻ります。OIGENの沿革によれば、同社は1947年(昭和22年)に法人発足し、軍事関連から本来の日用品・道具造りに戻ると同時に、焼型造型から生型造型に移行し始めました。
生型(機械で砂を圧縮して型をつくる量産向けの製法)は、同社の説明では電気が普及した時代に埼玉県川口市から伝わったものです。同地はすでに機械化が進んでいた鉄鋳物産地でした。ただし機械が担うのは造型と型の運搬という重労働の部分で、「溶かした鉄を流し込む作業や、それ以降の細部の仕上げ作業は、機械の時代となっても職人の手作業が頼りです」と同社は書いています。
この生型のおかげで「多くの人の手に南部鉄瓶が届くようになり」ました。いま1万円台から南部鉄瓶を選べるのは、戦後のこの転換があったからです。
鉄急須が生まれたのも戦後
意外に新しいのが鉄急須です。水沢で誕生したのは1954年前後だと同社は伝えています。日新堂の千田新吉が鉄瓶のミニチュアサンプルを製造したことが、急須への転用につながったとされています。いまカラフルな鉄急須が世界で売れていますが、そのルーツは戦後の小さな試作品でした。
09「南部鉄器」という名前になるまで
ここまで「盛岡の鉄器」「水沢の鋳物」と書き分けてきました。二つがひとつの名前になったのは1959年(昭和34年)です。OIGENの記述はこうです。「水沢鋳物工業協同組合と盛岡の南部鉄瓶商工業協同組合が共同で『岩手県南部鉄器協同組合連合会』を設立し、両地域の鉄器の名称を『南部鉄器』に統一します」。
「南部」には二重の意味がある
では、なぜ「南部」なのか。ここにOIGENの興味深い説明があります。
「南部鉄器」の「南部」はもともと、かつて盛岡の藩主であった南部藩の「南部」が由来しており、水沢の鋳物においては「岩手の南部に位置する」という地理的要素から「南部」という名称に統一されました。
つまり盛岡にとっては藩の名前、水沢にとっては県内での位置。同じ「南部」という語が、二つの産地でそれぞれ別の意味を持っていた。だからこそ、両者が納得できる名前になったのかもしれません。
そして伝統的工芸品 第1号へ
1975年(昭和50年)2月17日、南部鉄器は国の伝統的工芸品に指定されます。伝統的工芸品産業振興協会が公開している指定品目の一覧では、南部鉄器は指定順の1番に置かれています。OIGENも「全国で初めて指定されました」と記しています。
なお前年の1974年(昭和49年)には、13代鈴木盛久が南部鉄器職人として初めて「記録作成等の措置を講ずべき無形文化財」に選択されています(盛岡市公式)。
10世界へ ── カラー鉄器という発明
いま南部鉄器は海外でも知られています。きっかけのひとつがカラー鉄器でした。岩鋳は自社の歴史のページで、こう書いています。
「岩鋳では3年の歳月を経てカラフルな色を鉄器に着色する技術を独自に開発し」、そこへ「フランスの紅茶専門店から『カラフルなティーポット(急須)を作ってほしい』との依頼が舞い込みます」。岩鋳によれば、きっかけは同社専務がヨーロッパの巡航見本市に参加したことで、平成に入り本格的に海外へ乗り出したとしています。同社は「ヨーロッパの小売店では『IWACHU』が鉄器の代名詞にもなっているほど浸透しています」とも書き添えています。
岩手県の資料も「現在はカラフルな色使いでスタイリッシュなデザインの急須が製作され、ヨーロッパで人気となっています」とし、中国でも南部鉄瓶が人気で2010年には上海万国博覧会にも出展したと伝えています。
OIGENの沿革を見ると、1980年代にドイツのフランクフルトメッセへ出展、2007年に中国上海の茶専門店と直接貿易を開始、2010年代にオーストラリア・ドイツ・カナダ・台湾へ、2020年代にはフランス・韓国へと広がっています。
平安末期に近江から招かれた職人と、京都から召し抱えられた釜師。その技術が、いまはヨーロッパの食卓に届いている——約900年の話の、いまのところの続きです。
11南部鉄器 年表
ここまでの流れを、確認できた年代でまとめます。
| 年 | できごと |
|---|---|
| 1088年ごろ | 藤原清衡が近江国から鋳物師を豊田館に招く(水沢の始まり) |
| 南北朝期 | 葛西氏が関西から鋳物師を招き、水沢羽田町に鋳物業が定着 |
| 1625年 | 鈴木家が甲州から召し抱えられる(鈴木盛久工房 創業) |
| 1659年 | 小泉家が京都から召し抱えられる(御釜屋 創業) |
| 1750年頃 | 三代仁左衛門清尊が南部鉄瓶を創作(御釜屋の記述) |
| 1848年 | 及富 創業(伊達家お抱え釜師) |
| 1884年 | 盛岡大火。これを機に金気止め(釜焼き)が考案されたとされる |
| 1902年 | 岩鋳 創業 |
| 大正期 | 鉄瓶黄金時代(第一次大戦の好景気・送風装置の導入) |
| 1938年 | 鉄統制令。3年後に鉄製品の製造が全面禁止に |
| 1942〜43年 | 南部鉄瓶技術保存会 結成(資料により1年の差あり) |
| 1954年前後 | 鉄急須が水沢で誕生 |
| 1959年 | 岩手県南部鉄器協同組合連合会 設立。名称が「南部鉄器」に統一される |
| 1974年 | 13代鈴木盛久が記録作成等の措置を講ずべき無形文化財に選択される |
| 1975年2月17日 | 国の伝統的工芸品に指定(指定順の1番) |
| 2010年 | 上海万国博覧会に出展 |
※年代は資料により差があります。特に盛岡の起源は「17世紀初め」「17世紀中頃」「1659年」と資料が分かれています。
12よくある質問
南部鉄器と南部鉄瓶の違いは何ですか?
南部鉄器の歴史はどれくらいありますか?
鉄瓶はいつ生まれたのですか?
盛岡と水沢、どちらが本物の南部鉄器ですか?
なぜ「南部」と呼ぶのですか?
いつ伝統的工芸品に指定されましたか?
戦争中も南部鉄瓶は作られていたのですか?
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出典(外部リンク)
本記事が引用した一次ソースのうち、該当ページを特定できたものです。リンク先は別タブで開きます(2026年8月31日に到達を確認)。
- 奥州市「奥州市伝統産業会館(奥州南部鉄器館)」水沢地方の南部鉄器の歴史
- 盛岡市「盛岡の先人たち:鈴木盛久」
- 及源鋳造 OIGEN「『南部鉄器』の物語(前篇)-水沢と盛岡の二大産地」
- 及源鋳造 OIGEN「『南部鉄器』の物語(後篇)-南部鉄器のターニングポイント」
- 及源鋳造 OIGEN「会社概要・沿革」
- 御釜屋(小泉仁左衛門)「歴史」
- 鈴木盛久工房「南部鉄器と鈴木家」
- 鈴木盛久工房「当主紹介」
- 及富「工房の歴史」
- 南部鉄器協同組合
- 水沢鋳物工業協同組合「組合について」
- 伝統的工芸品産業振興協会「南部鉄器」
出典:奥州市公式・盛岡市公式・岩手県公式、伝統的工芸品産業振興協会、南部鉄器協同組合、水沢鋳物工業協同組合、及源鋳造 OIGEN(南部鉄器の物語・会社沿革)、御釜屋、鈴木盛久工房、及富、岩鋳の各公式情報。2026年8月28日確認。年代は資料により差があるため、食い違う箇所は各ソースの記述を併記しています。



