水沢系の南部鉄瓶工房
奥州・水沢の鋳物は古い歴史をもち、暮らしの道具としての鉄器づくりから発展したとされる系統です。日常使いしやすい鉄瓶を、手に取りやすい価格帯まで含めて数多く生み出しています。
該当工房 7 軒 / 画像はイメージ
平安時代末期、平泉の時代から
水沢の鋳物は、南部鉄器のもうひとつの産地であると同時に、盛岡よりおよそ500年古い歴史を持ちます。奥州市の公式サイトは「今からおよそ930年前(平安時代の末期)、奥州押領使となった藤原清衡(平泉文化をきずいた人)が、近江の国から鋳物師を、江刺市にあった豊田館に招いて鋳造を始めたのが、この地方の鋳物業の起こり」と説明しています。中尊寺金色堂を建てた奥州藤原氏の初代です。
年代は資料により幅があり、水沢鋳物工業協同組合は1088年ごろ、岩手県の資料は約950年前としています。岩手県は、招かれた職人が武具などを作ったと記しています。
羽田町に定着するまで
奥州市公式によれば、その後南北朝時代(およそ640年前)に奥州総奉行の葛西氏が関西から鋳物師を呼び寄せ、「なべ」や「かま」を作りはじめ、現在の奥州市水沢羽田町に鋳物業が定着しました。いまも水沢の工房が羽田町に集まっているのは、この頃からの流れです。
江戸時代は伊達藩の保護下にありました。奥州市公式は「伊達藩の保護政策により大きく発展し『なべ』や『かま』などの日用品を中心とした鋳物の生産地として有名になりました」としています。1848年創業の及富は、伊達家のお抱え釜師として活躍したと記しています。
「田茂山鋳物」と呼ばれていた
水沢の鋳物が「南部鉄器」と呼ばれるようになったのは、実はごく最近です。奥州市公式によれば明治20年以前は「田茂山鋳物」と称されていました。盛岡と名称が統一されたのは1959年(昭和34年)、両地域の組合が共同で岩手県南部鉄器協同組合連合会を設立したときのことです。
OIGENによれば、「南部」は盛岡にとっては藩の名前ですが、水沢にとっては「岩手の南部に位置する」という地理的な意味だったといいます。同じ言葉が、産地によって別の由来を持っていたわけです。